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「天網恢恢疎にして漏らさず」を考える
「天網恢恢疎にして漏らさず」というのは老子の言葉とのことで、一般には天は悪事を見逃さないというような意味で使われているようである。個人的(人間的)には、日頃の生活で理不尽なことが起きたときに、自分を感情的に納得させるために「天網恢恢疎にして漏らさず」と考えたりしている。
しかし、これを本質に遡って考えてみるとどうであろうか。仮に、全ては本質的に一体であるという考えに立って考えてみるとどうだろうか(この部分は量子論などに沿って科学的に考えるべき部分と思う)。そもそもそこに「悪」を観念できるであろうか。逆に「善」を観念できるであろうか。全てが本質的に一体と考えると、自分が嫌っている人や物全てが自分と繋がっていることになってしまう。「許すという前に全てが許されている」ということになってしまうのではないだろうか。すべてが一体であり、何も善悪の基準がないとすると、そこにあるのは、ただ、自分がやりたいことを選択するという「意思」だけということになる。そして、人が何かの行動を選択して、実際に行動をした後に残るのは何らかの「感情」であろう(感情がどのように生まれるのかは難しい問題と思うが、すくなくとも他のものとの関係から生じるものであろう)。そして、場合によって「反省したり」「悪かった」と思ったりすることになる。そして、その思いは現実化する。つまり、悪を責めているのは、実は天ではなく行動した人間その人であるということになる。すべてが一体である天には善悪の色分けはないから、天は何も責めたりはしない。自分が天と一体であるならば、「反省」や「悪かった」という思いも存在しない(ただ、天と自分との関係を理解している人物は、徒に他人を害したりはしないということだろう。なぜなら、他人を害することは自分を害することだから。その意味で天と自分との関係を理解している人物には、そもそも法などなくても極めて道徳的なのだろうと思う)。
結局、「天網恢恢疎にして漏らさず」というのは、天と自分との関係を理解しない限り、自分で自分を責めて自滅するという自然の道理を語ったものなのではないだろうかと思う(※)。もっとも、これも単に「考える」というレベルでは駄目なのだろうけれども。
※ 2つの仮定を前提とした。一つは意識や物質を含めて「すべてが一体である」という仮定であり、もう一つは、「思いが現実を創造している」という仮定である。もっとも、この二つの仮定が別々のものなのかは一つの問題と思われる。というのも「思いが現実を創造している」という仮定のみを前提とするとやはり、「敵」とか「悪」という概念が生じてしまうように思われるからである。思いという意識的な部分(観察者)とその意識が投影される対象は分離できないというのが量子論的な考えに合致するとすれば、二つの仮定は分離できない。そして、思いが現実化する場(対象)も最終的には無限ということになるのではないだろうか。意識を無限に広げるとあらゆる意識を含んでしまうので、個々の意識の是非について価値判断はできない。どこまで意識を広げることができるのかが、意識のレベルを決めることになるのかもしれない。