情状弁護について 雑感
刑事弁護のほとんどは、否認事件(「やっていない」という主張など)ではなく、犯罪行為をしてしまったことを前提に、どのような刑事処分が相当なのかということが問題となる情状弁護の事案です。
具体的な事案においては、犯行動機に「同情されうるような事情」のある事案から、判決において「身勝手な犯行」などと指摘される事案まで様々です。
ただ、経験的(今まで100件を超える程度は刑事弁護をしていると思いますが)にいうと情状弁護においては、どちらかというと判決で「身勝手な犯行」と指摘される事案が多いような気がします。
このような「身勝手な犯行」と指摘される事案においては、一般の方からすると、弁護人が、やや強引とも受け取れるような主張をしていると感じられることがあるかもしれません。
しかし、裁判官が「身勝手な犯行」と指摘する事案であっても、個別の事案においては、様々な事情が背景にあることが多いです。
私が、司法修習生だったときに、指導してくださった先生の一人は、情状弁護は、「被疑者(被告人)との対話である」と言われていました。
私の記憶が少し薄れているので、不正確かもしれませんが、その先生は、「最終的にどのような判決が言い渡されるかは、実は重要なことではない。裁判官は非常にわずかの時間の接触で判決を言い渡すに過ぎない。刑事弁護人として重要なことは、被疑者(被告人)に今回、弁護人が活動し、関わることで、何かを感じとってもらって、少しでも変わる方向で心に訴えることができれば一応の成功なのだ」という趣旨のことを言われていたと記憶しています。
勿論、弁護人との接見といっても、回数は限られるのですが、裁判官や検察官よりは、回数も多く、より立ち入った会話が可能です(心を完全に閉ざしてしまっている被疑者・被告人もいるのですが)。
人の心を動かすなどは、おこがましく、かつ、容易ではないのですが、「人に歴史あり」という謙虚な気持ちで、被疑者・被告人から、丁寧に話を聞き取り、否認事件とはまた、違った意味で、弁護人としての接見を重ねることが重要だと思っています。
また、最近では、高齢者・障害者に対する被疑者・被告人段階での福祉的な入口支援、受刑後の福祉的な出口支援なども問題になってきています。
どのようにしたら、犯罪がなくなっていくのか、単純に社会から隔離・排斥するという方向ではなく、なぜ、そのような犯罪が起きたのか、どうしたら無くすことができるのか、犯罪者もいずれ社会に戻ってくることを前提に、目を背けずに社会全体として考えることが必要なのかもしれません。