民主主義とは何か~言葉による認識の限界と新しい制度への試み~

先日、ハーバード大学の著名な教授が議論をリードしながら、アメリカの大学生、日本の大学生、中国の大学生を相手に、民主主義について議論をしている番組を見ました。その中で中国の学生は、自分たちの国は民主主義であると主張し、アメリカの学生と日本の学生のほとんどは中国は民主主義ではないと主張して、議論は平行線になって終了していました。なかなか面白い番組だと思って観ていたのですが、ふと、以下のようなことを思いました。

 すなわち、「民主主義」という言葉を古代から遡って調べていくとその意味合いはなかなか難しく、近代に入ってからでも以外にいろいろな意味で使われていることが分かります。言葉だけ見ると「民が主体となっているといえるような形」さえあれば、すべて含まれうる広い概念で、これだけでは議論は出来ないように感じました。聖書には「最初に言葉ありき」とされているようですが、言葉はその言葉を発する者の思いがあって初めて意味を持つように思います。「言霊」というのも同じで言葉にどのような意味を込めるのかが重要な気がします。なので、民主主義という言葉は、これを使う者がどのような思いで語っているのか、こそが重要なことだと思いました。つまり、私たちは、言葉でのやり取りをしているようで、実際のところは、言葉が象徴するイメージを交換して、コミュニケーションをしているということだと思います。

 さて、民主主義をどのような切り口で議論していくべきかなのですが、欧米的な発想では、民主主義というのはどちらかといえば権力者や国に対する疑いが背景にあるように思うのですがどうでしょうか(その意味では権力分立的な発想とも共通しているのではないかと思います)。他方、国や権力者に対する信頼を前提に民主主義という言葉が使われることもあるように思います。つまり、先ほども述べたように民主主義という言葉を使うとき、その民主主義という言葉を使用している者の思いや歴史的背景などを考慮しないと当然に議論は嚙み合わないということです。
 もっとも、いずれの立場にたつとしても、その社会の構成員が「バラバラ別々」であるということは同じ前提であると思います(つまり、社会の構成員がバラバラ別々であることを前提として、社会の構成員が幸福になるにはどのような社会制度が良いのかということに対する価値判断の相違であるといえるのではないでしょうか)。
 ここで、仮にですが科学的に私たちの意識を分断することができない。すべてが繋がりあっているという理解が成り立ちうるとしたらどうでしょうか(量子論的には十分に立論可能と思いますが)。今まで「人間というのはそれぞれ別々バラバラなんだ。それを前提にみんなが幸せになるためにはどのような制度が良いのか」(これは感覚的なものかもしれませんが、議論の始めから一部の人間さえ幸せであれば良いのだという考えはなかなかないようような気がします。あくまで、最終的な結論として〔たとえば多数決で決せざるを得ない結果〕一部の人間の幸福にとどまるがそれは止むを得ないという考え方が多いと思います)社会の構成員の意識が繋がりあっている(道徳的あるいはスローガンとしてに「みんなが一つ」というのではなく、物理的につながりあっている)という理解です。なかなか現実的には受け入れ難い部分がありますが、あらゆるものが繋がっているという前提でなければ説明が出来ないような事態もあるように思われます(一般的には偶然として処理されていますが)。
 仮に、今まで「別々バラバラ」の存在であることを前提に、どうやったら「別々バラバラ」の構成員にとって、一番良い社会制度になるだろうかと考えていた思考を一旦脇に置いて、「それぞれは独自の存在であるけれども、同時に、つながりあっている。全てはひとつである」というような理解が物理学的に(つまり「道徳」や「スローガン」としてではなく)成り立ちうるとしたらどうでしょうか。この「一つでありながら独自の存在」というような今までとは全く別の理解が成り立ちうるとすると、おそらく今まで妥当だと思われてきた社会制度も大きく変わるような気がします。
 というのも、「それぞれは独自の存在であるが同時に一つの存在である」ということが、仮に、科学的ないし物理学的にいえるとすると、単純に「誰かにすることは究極的には自分にすることである」という理解になるはずであり、そうすると道徳的な意味で誰かを害してはならないということではなく、単純に、人にすることは自分にすることだから、そもそもにおいて、誰かを害するということ自体をしたいとは誰も思わなくなるでしょうし、誰かに隠しごとをすること自体もあまり意味がないということになるように思われるからです(プライバシーという考え方についてもだいぶ違った見方が出てくると思います。つまり、静謐な中で自分の考えを熟考するということと、誰もがそれを知り得るということは別の事柄だと思うのです)。さらに言うと、競争という考え方自体が、このような理解のもとでは意味のない行為ということになりそうです。仮に、もし、このような「それぞれは独自の存在であるが同時に一つの存在でもある」という仮定が成り立ちうるとしたら、ここで議論されていた民主主義という政治制度も必要がなくなるか、少なくとも今までとは全く異なる意味を持って議論されることになるように思いました。個人的には、今後の社会制度はこのような発想に基づくものであることが必要なのではないか、そして、このような「それぞれは独自の存在であるが、同時に一つであり分離できない」という考え方や発想が根本にある限り、どのような社会制度であっても、どちらかが正しいという必要はないように思っています。

※ なお、このような考え方が成り立ちうるとしても、過去に生まれた民主主義の考え方や競争の概念を否定するということではありません。人間的には、過去のある考え方や過去の歴史について、何らかの価値基準をもとに善悪で処断してしまいがちですが、そうではなく、「ひとつでありながら独自の存在」にとっての「経験」であるという見方が出来れば、過去を処断することなく、新しい制度に移行できるように思われます。というのも、「ひとつでありながら独自の存在」という見方が成り立ちうるのであれば、過去を断罪することは、自分自身を断罪することになってしまい、あまり意味がないと思われるからです(もっとも、あまり意味のない行為を繰り返しているのが人間というものなのかもしれませんが)。

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