「祈りと願い」について~叶う願いと叶わない願いについて考える~
「祈り」と「願い」についてどのように定義するのかについてはいろいろな考え方がある。祈りと願いの違いを強調する考えもあるが、ここではそのような境界は設けない。単に自分が希望する現実(望み)を求める行為と広く定義しておき「祈りないし願い」ということで話をすすめたいと思う。というのも「祈り」や「願い」を考えるとき、一番問題になるのは「何故一方で叶う願いや祈りがあり、他方で叶わない願いや祈りがあるのか」ということではないかと思うので、定義としてはとりあえず広く取っておいたほうが良いと思うからである。
ところで、一般的に人間(に限定すべきかは問題だがとりあえず)は常に何かを望むもの(意思的な活動も含めて動くもの)であると言っても間違いではないであろう。そして、「望む」という行為はある種創造的な意思活動(動き)だと思う。何かを望み、その望みが現実化して叶えば嬉しくなり幸福に感じるし、他方、現実化せずに叶わないと悲しくなったり、不幸に感じたり、場合によっては絶望したり、自暴自棄になったりする。
そこで、最初の疑問に戻って、何故、叶う願いや祈りがあり、他方で、叶わない(と一見思われる)願いや祈りがあるのか、ということを少し考えてみたい。
このことに関して以下のような点が問題になるように思う。
まず、最初に、願いが叶わないのは「本気(本心)」ではないからだという人がいる。そうすると願いが叶わないということは「本気の願いではない」ということになる。しかし、自分が「本気」で思っていることを自分自身で認識することは意外に難しい。そうではないだろうか。経験的には、自分が希望している現実(願い)が、「表面的な自分が考えていること」と、「心の奥底で本当に思っていること」がズレていることがあるように思われる。例えば、その時は自分の希望に沿っていない(願いが叶っていない)と思っていた「過去の出来事」(過去、現在、未来という直線的な時間軸も考えると難しいがその問題はとりあえずおいておく)を、今、振り返ってみると実は自分の希望に沿っていたということを認識した経験は誰にもでもあるのではないだろうか。そのことは、表面的には自分の希望が叶っていないと思っていても、本心では本人の希望の現実が叶えられているということがあるということであろう。したがって、表層的な本人(顕在意識というべきか)の意識が、自分の希望は叶っていないという認識だったとしても、それが本当の意味での本人の希望に沿っていないのかどうかはよくよく考えてみる必要がある。
そして、実はこれを突き詰めていくと、現状の自分の姿は、常に自分の本気(本心)の希望に叶っているということにもなる(これを受け入れられるかどうかは別として)。
次に、考えておかなければならないのは、自分が希望する現実を求めたときに、同時に、そのような現実が叶うはずがないという「不安や恐怖」を感じることがあるということである。このこともおそらく誰もが経験していることであろうと思う。何故このように思ってしまうのかも突き詰めていくと難しいが、自分にはそれを実現する能力がないとか、価値がないとか、そのような幸運があるはずがないという現実の実現プロセスに対する疑問や疑いがあるのではないかという気がする。もっとも、こうなってくると自分で、自分の希望や望み(願いや祈り)の現実化を打ち消しているということになる。
最後に、そもそも「誰に願い、誰に祈るのか」という根源的な問題がある。このことに関連して経験的に認識しているのは自分とは「別の者」を崇拝したり信じたりするという行為が、しばしば「自分を貶める」ことになるということである。卑近な例をあげれば霊感商法やマインドコントロールなどと言われるようなことが挙げられるであろう。しかし、このことも突き詰めるとそれほど容易に判断できない。この点については次の二つの意味で考える必要があると思う。すなわち、俄かに信じがたいことだが、前述のように、自分自身をそのように貶める行為自体が、その当時の自分の本心に合致している(沿っている)という可能性があるということである。他方、もう一つは自分と他人とは、どこまでが自分でどこからが他人なのかという問題である。すなわち、通常、私たちは、肉体というか物理的な物を基準に自分と他者とを区別している。しかし、自分自身の意識の深く潜在的な意識まで遡ったとき、そこに自分と他者との境界があるのかという疑問である(仮にそこまで深く遡ると境界がないという話になってくると、他者との関係だけではなく、前記した過去、現在、未来という時間軸もおそらく無くなるのではないだろうか。ただ「在る」という状態には時間も空間もないのではないか)。
これらを少し冷静に考えてみたい。確かに表面的な自分(顕在意識というべきか)が考えている希望と心の奥底(潜在意識というべきか)が考えている希望との間にズレがあることはおそらく経験的に理解できるように思われる。現実が心の奥底で本当は希望していることが叶っているが表面的な自分の希望とはズレているために、望みが叶っていないという認識をするのだとしたら、そのズレを調整することが必要になる。そのズレを調整するためにはどうしたらよいのであろうか。量子論的に考えるとするとあらゆるものは潜在的にはつながりあっているということになる。この仮定を前提とすると、望みとは一体何かということになる。それは観察者によるある種の意思の動きなのであろう。しかし、その茫漠とした意識のつながりの中で、その意思の焦点(意識の中心点)はどこに求めたらよいのであろうか。それは結局は観察をしている自分自身の中に見出すしかないのではないだろうか。つまり全ての人は自分自身の中にその意思の焦点(意識の中心点)を見つけるしかないように思われるのである。したがって、結局それは、自分の本当の望みを自分自身の中に見つけるということである。表層的な自分の願いや祈り(顕在意識)と本心としての自分の願いや祈りのズレを調整するためには、波だっている自分の意識を静めて、自分の内面に入り自分自身の意識の中に自分の本当の願いを見出すしかないように思われる。
このことは同時に「誰に祈り、誰に願うのか」という根源的な問題に対する答えも示唆している。すなわち、あらゆるものが繋がりあっており、自分の望みを観察をしている自分自身の意識の中に中心点に見出すということは、誰か自分とは別のものを崇拝するのではなく、自分の内側の中にその中心点を見出すことになる。それは、あくまで自分自身の「中に」自分の希望を見出すということであるから、誰か自分とは別のものを通じて外側からやってくる「発言や行為、人格、物」を崇拝することではなく(偶像崇拝をしてはならないということであろう)、いわゆるマインドコントロールなどとは無縁と言うことになるであろう(訳も分からず自分とは別人格の神仏を崇拝する必要もないしその意味もない)。ただし、この考えを突き詰めると自分と他者との「内側の」境界線がないことになり、自分とは別の存在として認識しているいわゆる聖者や神仏などに限らずあらゆる他者は実は広い意味での自分自身ということを意味することになる。それはつまり、中心となる自分自身の意思が、内側から波のように伝わってあらゆる物事を引き起こしているということになるであろう。したがって、あらゆる物事が生じた責任はすべて自分が負わなければならないということになる(この事が人間として容易に受け入れられるかどうかは別として理屈としてはそうなるのではないだろうか)。望みの中心は自分の内側にあったものであり、それを「内側から」動かしたのは紛れもなく自分自身だからである。もっとも、このような考え方が、受け入れられるのかどうかということは前記のように人間の感情的には大きな問題になるであろう。
なお、自分自身の「内側に」意思の中心点を見出すということになるとすると、それは「自分勝手」「利己主義」ということになりはしないかという疑問も生じる。ただ、この点は、「あらゆるものが繋がりあっている」という仮定が揺るぎないものであるとするならば、杞憂に過ぎないと思われる。なぜなら、あらゆるものが繋がりあっているのだとすれば「誰かにすることは自分にすること」だからであり、他人を害することは自分を害することを認識している者が徒に他者を害するとは思えず、そもそも道徳なども必要はないと思われるからである(この意味で、いわゆる聖者がとてつもなく自信家でありながら、とてつもなく謙虚というのは理解できる)。
少し脱線するが、このことに関連して「社会的に迷惑な人」というのも少し考えてみたい。いろいろな迷惑行為を行う人、犯罪を行う人、戦争犯罪なども含めて考えてみたい。あらゆるものが繋がりあっているという仮定が揺るぎないものだとすると、そのような迷惑な人を含めて全体が成り立っているという理屈になる。社会的に迷惑な人は全体にとってどのような意味があるのであろうか。これも考えてみるとなかなか難しい問題であるが、結局は私たちの存在意義あるいは(少し大きく言えば)この宇宙の存在意義(神の目的とでもいうべきか)に帰着する問題のように思われる。このことの答えも容易ではないが、一つの仮定としては何かの「動き」をしたときに、その波は何等かの結果(感情か)を生じさせる。仮に、「存在そのもの」(人格神ではないが、神というべきか)が、「すべての(創造的な)動き」から生じる「あらゆる結果を求めている」のだとしたら、迷惑行為自体もその存在自体の無限性の範囲に含まれるということになるのであろう。つまり、すべては許されているということになる(このことは自分自身が迷惑行為をしている可能性も含めて自分を許すことになる重要な事柄のように思う)。蟻の巣の中には、普段はまったく働かない蟻がいるが、働く蟻が倒れた時には突然働き始めるというような話を聞いたことがある。この世界には無駄なものはないのかもしれない。
さて、おそらくこのように考えるときの一番の問題は、「心の奥底の意識は本当に全て繋がりあっているのかどうかという点についての確信」を得られるのかどうかであろう。しかし、この点の確信を得るためには自分自身で、「小さな願い」「小さな祈り」を実践してその結果を見て経験を積み重ねるしかないように思われる。その体験は「叡智の真珠」というべきものなのであろう。
そして、さらに問題なのは、前述のように自分の中に「本当の自分が望んでいること」をそう簡単に見つけることが出来るのかどうかということであろう。本当に自分が望んでいることが分からないのであれば、とりあえず、自分が希望するものはとりあえず何でも制限なくやってみるということになるのかもしれない(そして、それに飽きたら次の段階にいくということになるのかもしれない)。
もっとも、同じ経験(正確には全く同じことは存在しないと思われるので似た経験ということと思われるが)を、それが「本当に自分が希望していることなのか」どうかも分からず、訳もわからないままに(ある種の中毒になって)何度も何度も繰り返しているということがありうるかもしれない(それが輪廻転生だという見解もある)。本当は1度経験したら(その結果は得たのであるから)それを手放して次の経験(創造的な動き)に移るべきなのに際限なく繰り返しているとしたらそれは苦痛であろう。
そのため、もう一度最初の疑問に戻るが、「自分が真に希望している現実」と「表面的に自分が希望していること」とのズレをどのように調整するのかは、非常に重要だと思われる。この点、(心の奥底の)本当の自分が希望している内容を知ることが出来れば簡単である。しかし、これを知るのは容易ではないように思われる。殊に社会の中で毎日毎日を忙しく生きる私たちに自分の心の奥底(潜在意識というべきか)の本当の希望を知ることは容易ではない。やはり前述したように自分の内側から生じた「小さな願い」「小さな祈り」から生じる経験を積み重ねるしか、その証明方法はないように思われる。
では、どうしたらここで「小さな願い」「小さな祈り」を現実化させることができるのであろうか、そのための方法を少し考えてみたい。
宗教的な本や精神世界的な本の中で、よく言われているのは、自分が希望する願いの「設計図」(自分の希望する結論ということか)を心(顕在意識)に描いたら、あとは見えない力(潜在意識
に委ねるというような話である(この点の説明の仕方は、瞑想や呼吸法などいろいろあるようであるが、顕在的な意識の力のみでは何事もなしえないというような趣旨は共通しているように思われる)。確かに、「心の奥底の繋がりやその力」がどのように機能するのかを認識することは(少なくとも現状は)難しいように思われる。そこで、そのような「役割分担」(もっとも、最終的には役割分担が無くなるような気はする)を意識して、とりあえずやってみるしかないと思う。例えば外国製の車が欲しいとしよう。私たちがするべきなのは、その車を実際に手にしている事を思う事である
なお、「悪い望み」は叶わないという人もいるが、私はそうは思わない。現に世の中には「悪い」というようなことが多々起きているからである。そもそも一様につながっていると思われる意識が善悪の判断をするとも思えない。なぜなら、善悪の判断(価値判断)があることを前提にするということ自体が、自分とは別のルールあるいは自分とは別の人格(いわゆる神仏ということになるのかもしれないが)を前提にしており矛盾しているように思われるからである。「いわゆる悪」というものが存在するのは、あらゆるものが繋がりあっているという認識を欠いている存在(いわゆる人間と言うことになると思うが)が作ったものに過ぎないと思われる(そのことを「無智」というのであろうか)。
最後に、自分で希望しながら、自分を疑い、自分に不安になり恐れるという感情をどうするのか、が問題である。この点、皆がつながりあっているということであるとすると、たとえ個人的な願いや希望であったとしても全体との調和を前提にした希望の仕方になるのではないであろうか。なぜなら、「誰かにすることは自分にすることであり」「自分にすることは誰かにすることでもある」と思われるからである。そのような全体的な調和を前提とした祈りや願いであれば、自分の中に不安や恐れが生じることは少ないように思われる。ただ、自分の潜在的な力を信じることが出来ないことから生じる不安や恐れについてはどうしたらよいのか、という疑問は残る。それは結局のところ「自分とは何か」という究極の問いにもう一度向かい合うしかないように思われる(それは、つまり、すでに述べたように自分と他者との境界線はどこにあるのかということである)。
しかし、いずれにしても、いきなりこの問題に結論を出すことは難しい。その証明は内面にしか存在しないように思われるからである。したがって、1人1人が自分の中の「小さな願い」「小さな祈り」を実践し、その結果をそれぞれが目にすることによってしか、最終的にはその結論を得ることは難しいように思われる。
クリスマスや年末年始にかけていろいろ「祈りや願い」をすることも多い時期である(小さくは近隣の日常的な紛争、大きくは世界の各地で起きている戦争も今のところ止むことがない)。あまりに難しい問題なので、少しまとまりがない文章になったが、一番の関心事である「何故叶う祈りや願いがあり、他方で叶わない祈りや願いがあるのか」ということについて考えてみた。